上野のバイク街が、先日のコーリン倒産によりほぼ完全に消滅しました。
そういえば、今乗っているチョッパーもベース車両はここで購入したものでした。
今使用しているミクニHSR42も、当時発売中止になったデッドストック品をコーリンで手に入れたのです。
無論それ以前から何度もお世話になりました。
エヴォのダイナにつけた、トリプルツリー、エイプバー、ビレットグリップ、ビレットレバー、ミラー、サドルバッグ、ツールバッグ・・・。
北川商会やコニシパーツを知るまでは、ほとんどの物をここで買っていました。
もとい、ハーレーに乗る前から頻繁に通ったのです。
ウエア類もここでたくさん買いました。
ヘルメット、グローブ、サマージャケット、エンジニアブーツ、Tシャツ。
プリントされたブラックTシャツは、どこよりも品揃えが良かったと記憶しています。
接客態度は(全員そうだったわけではありませんが)、私が行き始めた頃は酷い物でした。
敬語で話しかけたらタメ口で返される事も珍しくありませんでした。
その上商品説明が超適当。
後で気付いて文句を言っても「そんなこと言っていない」で泣き寝入り。
注文した物が年単位で来ない。
冗談のような話ですが、事実です。
なんでそんな店なんかに・・・と、普通の人は思われるでしょう。
しかし90年代当時、バイク屋にはこういう店がいくつもありました。
客にタメ口とか、客無視、なんて行為は、コーリン以外でもハーレーディーラーやカスタムショップなどで経験しましたし、場末のバイク屋みたいな所は、どこも口の利き方も接客の基本も知らない人間が多く、バイク乗りはその胃を熱く沸騰させながら我慢に我慢を重ね、芯の強い消費者に昇華することができたのです(え?)。

そして、90年代中盤からコーリンは変わります。
接客態度がまともになってきました。
特に私がバイクを買った頃からは本当に変わりました。
キャブを買ったときには、細かいパーツの交換(そのデッドストックのパッケージに入ってるパーツが、違うパッケージの物と入れ替わっていた・・・)から何から、「これがあのコーリンか」と疑うばかりの親切ぶりでした。
「自分の店でバイク本体を買った客は特別」だったこともあったでしょう。
しかしそれだけではないと思います。
推測ですが、この時、ライコランドやナップスというライバル店が相次いで首都圏に店を出し、そちらは常識の範囲内の接客だったので客を奪われまくったのではないかと・・・。
そしていくつもの店舗が閉店。
賑わいを見せていた、休日の路駐バイクショーも寂しくなり、素人目にも変化(衰退)が感じ取れるようにまでなりました。

しかしその後も、大嘘説明で使い物にならないグローブを買わされたり、「錆び有りタンク」を通販で購入したら「錆びだらけで穴が開きそうなタンク」がやってきたり等、引き続き私に試練を与えてくださいました。
ライバルが出現し、経営が苦しくなり、客が減ってもやっぱりコーリンだったのです。
そして、いつの間にか私は上野へ行かなくなりました。
コニシパーツでほとんどのパーツを買うようになり、コーリンに行く必要が無くなった事。
近所にナップスができたこと。
通販を多用するようになったこと。
オルグされたらしい店員が、営業中に目の前で活動やってる姿に引いたこと。
とどめに、上野とセットで通っていた秋葉原に魅力が無くなり、秋葉原自体にまったく行かなくなってしまったことがあります。
秋葉と上野。
地理的に近いこともあり、バイク乗りが上野ついでに秋葉へはしごをするのは決して珍しい話ではありませんでした。
秋葉原=オタクの街という固定概念ができあがってしまっていますが、秋葉原は怪しい電子部品の街でもあり、アースイングにしろLED光り物にしろ、秋葉原にはバイクのどうでもいい電気パーツの材料になる物が、豊富かつ安値で並んでいたからです。
ちょっと勉強すれば、バイク用品店で数千円、時には万単位に達する物が、数百円単位の部品をかき集めて作れてしまう。
バイク乗りにとって、これはとてつもなく魅力的です。
しかも、当時バイクの路駐は黙認されていたので、堂々とバイクを止めて電子部品漁りが思う存分できました。
歩行者天国の時も、押して歩けば歩行者という法律を悪用し、秋葉原もバイク展示場化。

だがしかし、秋葉原の再開発(それ以前から、面白い店の閉店が相次いでいた)とその後に起きるバイク締め出しによって、バイク乗りにとっての魅力が半減。
バイク街の衰退と歩調をあわせるかのように・・・。
そして、遂に、バイク街の中心とも言えるコーリンが倒産、消滅。

何か一つの・・・自分にとって大事な時間を過ごした、かけがえのないもの。
言ってみれば、「時代」が終わった・・・。
倒産の話を聞いてわき起こってきた感情は、この、どことなく物悲しいものでした。
以前から倒産は噂されていたし、コーリン店舗跡地にマンションが建って、絶対に後戻りできない(かつての賑わいを取り戻すことができない)状況になっていたことは知っていました。
訴訟をいくつも抱え、とっくの昔に銀行の管理下に落ち、自分自身も酷い目にあった。
しかし、いざ現実として、コーリンが、バイク街が完全に消え去った時。
自分の胸に去来した物は何だったか?
思い出しても不愉快な思い出が沢山なバイク街。
風俗店の客引きの如く、通りすがりを強引に店に引き込んで、ニコイチのバイクを無理矢理売りつけるのがデフォという、北斗の拳のような極悪非道なバイク街。
クレームつけた客に対して「てめーなんか死んぢまえー!」という対応をする店主が名物という修羅の国のようなバイク街。
「バイク街では、絶対に買ってはいけない」という言葉が、真っ先に出てくるバイク街。
それが消えて無くなった。
良い事じゃないか。
バイクパーツ店が無くなった訳じゃない。
今やライコランドやナップス、2りんかんといった大型店が多数存在するし、店員の態度も人間的だ。
コーリンと違って立派な駐輪場がある。

ライコやナップスにはハーレーパーツはほとんど無いが、カスタムクロームやドラッグスペシャリティーズ、Vツインの製品ならコニシパーツがある。
ガッツクロームもある。
純正パーツは、ショベルやパンの物でも、ディーラーに行けば注文できるし、コーリンと違って必ず注文した物が来る。
何から何まで、上野しかなかった時代よりも良くはなっても、悪くはなってないはずなのだ。
なのに・・・。
なのに無くなってしまったことが、本当に寂しく感じてしまう。
上野が繁栄していた頃が懐かしく、輝いて見えてしまう。
何故だろう?
そう考えながら(思い出しながら)ナップスにやライコに行くと答えが見えてくる気がする。
整然と並んだ、国内メーカーのパーツ群。
南海などのよくあるウエア類。
装飾メットやアライやショウエイ等一流どころの無難なモデルが並ぶメットコーナー。
店の一角には、今はやりのビックスクーターのちょっとだけ派手なカスタム車がちょこんと展示されている。
普通だ。
とても普通なのだ。
あの栄えていた頃の上野とは全く違う、「普通」の風景なのだ。
それに比べ、昔の上野はどうだっただろう?
もちろんデイトナなどの国内製パーツも並べてあった。
高級舶来物も沢山あった・・・しかも他の店よりも遙かに安い値段で。
しかし、そのすぐ横に、どこからどう見てもパチモンの、いかがわしいブツが無造作に積まれていた。
そして本物らしいが、裸だったり値段が不自然だったりする、横流しか盗難品かわからないパーツも平気で売られていた。
メジャー企業の製品そっくりなコピー商品(中国製品真っ青の)が、本物の横で平気で売られていた。
超スーパーマイナストレールの、普通のフォーク用7度レイクツリーにフォークと同じ径の鉄棒突っ込んで無理矢理スプリンガーにしただけの、つけたら死んじゃいそうなとんでもないパーツも置いてあった。
カドヤのジャケットをまんまコピーしたインチキブラックスタージャケット(本物とのデザインの違いが、胸のアルファベット1文字だけ)なんて、ここでしか見られなかった。
ヘルメットも、安全基準をクリアしてるかどうか怪しい製品がひしめいていたし、その多くが他のメーカーのペイントをそっくりそのまま流用したパチモンだった。
その中に、シンプソン等、舶来の高価なメットが、他店より安いプライスタグを付けて並べておかれていた。
無論シンプソンのパチモンも当たり前のように売られていたことは言うまでもあるまい(値段は三分の一程度)。
同じく、友人の着ていた正規物とは明らかに革質が異なる激安バンソン。
SHOEIやAraiのヘルメットステッカー(え?)に代表される、怪しさ満点のステッカー。
シンプソンやハーレーダビッドソンとプリントされているにもかかわらず、タグには「OUTLOW」以外何もないいかがわしさ300倍のTシャツ類。
展示されていた(その多くが売り物だった)バイクもすごかった。
HOTBIKEjapanに掲載されたバイク(ハーレー)そっくりにペイント&カスタムされたハーレー。
「おお!あのアメリカで入れ墨女が跨っていたハーレーが日本に輸入されたのか!?」
しかしよく見ると、インチキプライマリー、インチキプッシュロッドカバー、インチキキックで武装されたバルカンだった・・・。
そしてその横には何故かインディアン(バルカンドリフターじゃねえぞw)四発が置かれ、その向こうには当時復活したエクセルシャーヘンダーソンが二台、何気なく置いてある。
更によく見ると、CBXのサイケ全開の6発チョッパーまである。
まさにカオス。
どこまでもカオス。
そしてそのカオスは店舗内にとどまらない。
客用の駐輪場など存在しない上野において、バイクで来た客は皆、バイク街に路駐することになる。
これだけカオスな店に来る客だから、当然車両も多岐にわたり、ある意味「無秩序なバイクショー」と化したのである。
ピカピカのソフテイルに乗った、バンダナを巻いた“バイカー”の集団。
500万円するNRを一番目立つどころに駐める、ちょっと短い綿パンと水色の靴下とちょっと汚れた白いスニーカーがチャームポイントのおじさん。
今さっきコーリンで買ったばかりのマフラーを、車載工具で取り付けようとするスティード乗り。
キャブの調子を見ているのか、盛んに空ぶかしを繰り返すカワサキ。
パリパリと音を立てて入ってきたが、ナンバーはおろかヘッドライトもテールライトも見あたらないレーサー。
わざわざじゃまになりそうな所に置かれた、ボスホスのトライク。
ヤレにヤレまくったパンヘッドと、ほぼストックのくせにやたら音が良いショベルローライダー。
スズキの速そうな奴に乗った、日本語を全く話せない白人。
フル装備でスーパーバイク選手権から抜け出してきたようなオフ車(だけどブーツもバイクもプロテクタも汚れていない)男。
白煙ふきまくりの機関車トーマスγに、単にマット塗料をスプレーしただけのバルカンまで、本当にいろいろなバイクが止まっていた。
最近のチョッパーショウの客や、バイクナイトのように、高価で洗練されたバイクばかりではない、どちらかというと首をひねってしまうカスタムバイク(カスタムと言うより改造バイクと言った方がぴったりか)が集まっていたのが、上野だった気がする。
見た目だけではない。
信号で止まればシグナルGPで、反対の信号が赤くなったとたん、吹かしまくって爆音大会。
青信号とともに一斉にぶっ飛ばすバイクの集団を、白バイが追いかけていった・・・。
そして、反対車線を色々なバイクが走り去り、端に路駐したバイクのオーナーが、ガードレールに座ってその様子を眺めている。
まさにバイクまみれの街。
バイクのお祭りのような街。
そう、週末に行けば、毎回そこにはバイクの祭りがあったのだ。
連休ともなれば、遠くから来る人たちで更にヒートアップした。
狭い店内はおろか、上野のストリート全体が、ヘルメットを片手にした人間で埋め尽くされ、店舗の入り口にひしめき合った。
店で売っているボリ値のパチモンも、屋台の出店のインチキ商品と思えば許容範囲だったし、客の腕を掴んで店内に引きずり込む昭和通り沿いのバイク屋は、オンセンゲーシャのポン引きだったわけだ。
それだけじゃない。
バイク業界自体が輝いていた。
当時のバイク乗りにとって、現在のような「バイクはただの便利でファッション要素を備えた移動手段」ではなかった。
バイクは完全に「趣味」であり、それをする人間が、(色々な意味で)それができる人間がたくさんいた時代だった。
そして、その「趣味」は、基本的に違法の域に大きく足を踏み出していた。
その違法の域に片足を出す連中が集まる場所が上野であり、同じように違法の域、もしくはアンモラルな空間に片身を出しながら大ざっぱな商売をしていたのが、バイク街のバイクショップだった・・・。
今にして思えば、こういう事だったのかもしれない(あくまでも個人的な考え)。
そしてその世界の人間が集まっていたからこそ、バイク街は栄えていたのではないか。
魅力にあふれていたのではないか。
やがて、何もかもオートマ化され、車やバイクが「趣味」から「ファッション兼のただの移動手段」となった現在、圧倒的多数となったその「移動手段」を相手にするライコ等の大型店に、あの上野の「濃い味」が再現されるはずもない。
上野は、その反社会的な、私が大好きだった「いかがわしい文化」と共に消滅したのである。


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