俺史

立ち食いのプロ、鳴門巻の羽良多こと羽良多肛痔漏を語るにあたり、真っ先に障害にぶつかる事になるのが、その出生の地である。
立ち食いのプロ研究者として名高いお笑い芸人、桜島大噴火氏の著書「カウンターの挽歌」は、鳴門巻の羽良多を追跡調査した唯一の書で有り、彼を研究するに当たって真っ先に読まなければならないボトムラインペーパーである。
その記録文献、カウンターの挽歌、6章第二節に寄れば、羽良多の実家は三河東部にその在をしていたという説が有力であると記されている。
だがしかし、後の争乱時に公安当局の調査によって作成されたプロファイルによると、乳飲み子の羽良多は武蔵にいたというのは間違いの無い事実のようだ。
更に、桜島大噴火氏の調査では、羽良多は甲斐の地こそが真の彼の出生地である、という主張もまた存在し、氏の著書の中では結局出身地の決め手となる情報を得られていない事が窺える。
彼の出生をどことするか、長い間研究者の間で議論の的となってきたが、「里帰り」と称して武蔵付近の芦花公園にて路上生活を送っていた時期がある事や、三河における彼の目撃証言の少なさ、甲斐に至っては彼を知る者すら存在しない事実を持てば、彼の出生地は自ずと絞られる事になる。
だが、散文とは言え三河における羽良多の証言も少なからず存在し、親族の一部が武蔵だけで無く三河にも現存する話が信憑性を持って語られている以上、「出生は武蔵だが、そのルーツの過程に三河が存在する」という見解を支持するのが、至極正当な判断であろう。
しかし、これをもって「武蔵出身」とするか「三河出身」とするかの結論には至っていない。

 


 

だが、その三河にほど近い地で、彼は生涯を決定する一つの事件を引き起こす。

1989年静岡県静岡駅東海道線下りホームの立ち食いそば屋、「倒壊軒」にて、ラーメンに入った鳴門の渦巻きの向きを巡り、店主のオヤジと激しく口論。
羽良多は素手で鳴門をつかんでオヤジに叩き付けた挙げ句、代金を支払わずに逃走。
これが彼にとって初めての無銭飲食であり、そして彼のその後のキャリア、彼の生き方そのものを決定づけた事件だった。
羽良多は事件の直後、人生最初の投獄を経験する。
この時の羽良多の態度を、当時当直勤務だった山田巡査長は、後年執筆した自叙伝の中でこう記している。
「全く持って反省の色無く、唯々ラーメンに関する講釈を延々と並び立てる事甚だしき。感じたるはそのラーメンに対する偏執狂とも言ふべき異常な執着とこだわりであり、本官は唯々戦慄せん。」
羽良多は当時、16歳になっていた。
10日間の取り調べの後、羽良多は釈放される。
獄中でいかなる思考を経てこの結論に至ったか、今となっては推測するほかにはないが、羽良多は拘置所の門を背にしたその時、既に自分の行く末、生きる道、一般的に言うなら、己の人生のレールを、その茨の中に自ら敷いたのである。

立ち食いのプロ、鳴門巻の羽良多の誕生だった。

 

 

立ち食いのプロとして娑婆の土を踏んだ羽良多は、家にも戻らず失踪する。
失踪中の羽良多の足取りを示す物証は少ない。
が、1992年、千葉県我孫子市常磐線我孫子駅ホームの立ち食いそば屋、「矢追軒」にて、ラーメンを4盃もたいらげた後、鳴門の扱いに対し激しい因縁を付けて店主を罵倒した挙げ句、ホームに入ってきた下り取手行き快速に飛び乗って逃走した男の記録。
茨城県牛久市の「牛九ラーメン」にて、大盛りチャーシュー麺を食べた後に鳴門が入っていなかった事で店主をなじり、隙を見て暗闇へ逃げ出した男の記録。
同県土浦市のラーメン「山丘家」にて、同じく大盛りチャーシュー麺を食べた後に鳴門が入っていなかったと叫んでバイトの筑波大生を突き飛ばして逃げた男の記録。
同県取手市のラーメン屋「和歌寅家」にて、同じく大盛りチャーシュー麺を2杯平らげた後、鳴門が入っていなかった不満を大声で叫き、怒って包丁を持を持ち出した店主に2時間追い回された挙げ句、大利根大橋から利根川に飛び込み失踪した男の記録等。
似たような風貌、鳴門を突破口に無銭飲食を繰り返す手口から、断片的に羽良多の足取りを推測する事が出来る。

そして…1995年夏。
人々はその溶けかかったアスファルトに、己が足跡を刻印しつつ歩いていた…酷く熱い…。

そんな夏に、羽良多は二度目の投獄を経験する。
世田谷区の「天下逸品八幡山店」を舞台としたゴトが原因で…。
羽良多は例の如く鳴門が入っていない事を理由にバイトをなじった挙げ句に逃走を試みるが、たまたま通りかかった警察官に取り押さえられるという、立ち食いのプロとしてはお粗末な失態を犯した。
この事件でわかることは、彼の主戦場が、北関東から南下していた事実である。
ラーメン激戦区東京。
ラーメン屋が軒を連ねて火花を散らし、またそれを狙う立ち食いのプロ達も群雄割拠する、立ち食いのメッカ。
名を上げたい無名の立ち食いのプロ達が、一花咲かそうと、こぞってこの街を目指した。
羽良多もその無名なプロの一人であった。
当時の羽良多の足跡は、(逮捕された記録が残されているにもかかわらず)相変わらず断片的であり、それをたぐるのには人並みならぬ苦労を要する。
依然として彼は一介の食い逃げ犯に過ぎず、社会が認知するにはあまりにも小さい、取るに足らぬ存在として、その足跡は記録の海に沈んでいたのである。

 


 

しかし…
1999年。

世紀末の喪失感と世界の終末論による悲観的な世相に包まれた東京都豊島区。
そこにある立ち食いラーメン店「戦国自慢巣鴨駅前店」で、その事件は起きた。
早番の交代時間が迫った配膳係、野々村喧々の目の前に、空になった店の丼を手にした20代の不審な男が現れる。
「このラーメンには鳴門が入っておらず、ラーメンとはおおよそ呼べぬ欠陥商品なり。作り直せ。」
静かに、しかしその声の奥底に潜む怒りの表情に、野々村は怯えた。
そして言われるがママに、一杯のラーメンを作り直し、バイトの武内博に買ってこさせた鳴門を添えて男の前に出す。
男は丼を受け取るとカウンターに置くこともせず、そのラーメンを一気食い。
汁まで飲み干し、一息ついた男の口から出た言葉が…これである。
「コクが足りない、麺を茹でる温度が高過ぎるし、あげるのが早すぎる。挙げ句の果てには鳴門の向きが逆さまだった。このような代物、金を払うに値せず。」
きびすを返し扉から飛び出す男の後ろ姿を、野々村はあっけにとられた表情で見送るほかに術がなかった。

一見、過去に羽良多が繰り返してきた無銭飲食にみられる手口であり、目新しさはあまり感じられない。
しかし、ここで重要だったのは、この戦国自慢巣鴨駅前店は現金払いである他のラーメン屋と違い、食い逃げ防止の切り札、食券制だったことにある。
羽良多は、他の客が使い終った丼を借用し、言葉巧みに食券を買わずして無銭飲食をするという「偉業」を遂に達成したのだ。

従来食い逃げが不可能とされた食券制度における無銭飲食の成功は、業界を揺さぶる大ニュースとして駆け巡り、羽良多は一躍時の人として注目を浴びる事になり、当時急速に膨張の一途を辿っていたインターネット掲示板セカンドチャンネルに独自スレが乱立する大騒ぎとなった。
上京して約5年目にして、遂に羽良多は名のある立ち食いのプロの仲間入りを果たしたのである。

 


 

だが…この名声となったゴトが、羽良多本人のみならず、立ち食いのプロの世界の崩壊を決定づける結果になるとは…、まさに皮肉と言うほかにない。

頻発する無銭飲食行為と、その行為を賛美するネット界に対し、かねてより不快感をあらわにしてきた「全国飲食店共同組合」は、今回の羽良多の「偉業」を「飲食業界に対する卑劣な挑戦であり、到底見過ごす事はできぬ大罪」と断罪。
組織総出で一大キャンペーンを繰り広げた上で、食品業界のドンと言われた自民党衆議院議員古河誠食品産業省に直訴するという強硬手段に打って出る。
そして翌月の予算委員会の後の記者会見の場で、遂に古河はこのような言葉を発するのであった。
「近年日本国内に置いて頻発せし無銭飲食、並びに此を賞賛する社会的風潮は、日本の食品産業に危害を与えし由々しき事態に他ならぬ。此を放置する事は日本の勤労者たる店舗飲食店経営者、及びその従業員の生活を脅かす結果とならん事は甚だ明白也。無銭飲食なる卑劣な犯罪行為には、行政として断固とした姿勢で望まん。」
この宣戦布告とも言える発言の一ヶ月後、警察省は迅速な行動を見せた。

全国立ち食いのプロ一斉摘発である。

日本全国で徹底した捜索と、ターゲットになりやすい店舗の監視、遂には閉鎖店舗を利用したおとり捜査まで繰り広げられ、実に、立ち食いのプロと呼ばれる人間の7割が投獄されるに至った。
無論、その中に羽良多も入っていたことは言うまでもない。

三度目の投獄。

収容された拘置所は、おそらく羽良多にとって、まさに「完全なる敗北」を思い知らされた屈辱の場であった事だろう。
狭い監獄に次々と連行されてくる立ち食いのプロ達。
国家権力という抗う事の出来ぬ強大な力により、自分と、その同類の獣(けもの)が次々に社会から駆逐されていく様子を、なすすべも無く唯々見守るしか無かった羽良多の無念さは、想像を絶するものであったに相違ない。
この絶望感を、同じく当時立ち食いのプロとして暗躍していた、外食産業評論家鈴木伸吾氏はこのように述懐している。
「食い逃げ如きで大騒ぎで俺を捕まえた警官達を、俺は笑った。拘置所に行ったら、俺の前に同業者が何人も居て、また笑った。俺の後にも同業者が連行されてきて、また笑った。次々に連れてこられる同業者を見ている内に、笑えなくなり、やがて立ち食いのプロだけでいっぱいになった房で、漸く俺は状況を理解する事が出来た。俺たちは社会から拒絶されたのだと」
羽良多も同じく、慚愧に堪えぬ無力感を募らせながら獄中生活を送った事は想像に難しくない。

やがて一人、また一人と釈放され、羽良多も漸く娑婆に復帰する。

だがそこで羽良多を待っていたのは、以前とは全く様相が異なる世界であった。
もはや食い逃げを応援する社会はなく、些細な犯罪であってもあげつらって叩く、世知辛い新しい時代、21世紀であった。
そして追い打ちをかけるかのように、羽良多には執拗なまでの当局の監視が付けられていた。
戦国自慢における食い逃げにより、羽良多は要注意人物とされてしまっていたのだ。

だがしかし、これは後生の研究者には有り難い状況でもあった。
警察の厳重な尾行によって、釈放後の羽良多の足取りに関しては、詳細な記録が残される事になったからである。

娑婆に解き放たれた羽良多は、他の例に漏れず、故郷である武蔵の芦花公園に足を向けた。
彼は芦花公園で路上生活を送りながら、朝は烏山の商店街の清掃のバイト、夕方から夜にかけては交通整理のバイトをし、一日の収入は約1000円〜2000円程度を得ていたようだ。
やがて路上生活に飽きたのか、烏山郊外にある「五階建建設」の住み込みパートを始める。
朝6時起床。
朝食後、点呼をとって軽トラックの運転席に身を置く。
現場到着後は、雑務を淡々とこなし、昼食。
昼休みは寝て過ごす事が多かったようだ。
午後も雑務や軽トラックの運転を主にまかされていた。
これは、長年立ち食いのプロという、肉体労働からはおおよそかけ離れた生活を続けてきた為に、正規の肉体労働に耐えられなかった為では無いかと推測される。
当然その分給料も安く、他の従業員に比べ3割程低い水準だったようだ。
作業終了後、後片付けをし、事務所へ車を運転する。
日当をもらい、他の作業員が飲み屋に行くのを尻目に、羽良多は酒を飲まずに事務所の軽トラを借りて、夜の街を走り回っていた。
この段になって羽良多が酒も煙草も一切口にしない事が判明している。
例え先輩や社長等が同席する酒の席であっても、羽良多は酒の入ったグラスを持つ事すら拒絶し、茶や水の入ったグラスだけを口に運んでいた。
煙草も全く手にせず、女にもさほど興味を示していなかったようだ。
社の忘年式でキャバクラに行った際、羽良多は女性店員ともほとんど口も聞かず、早々に店を後にしている。
無論、無口で食い逃げしか芸のない羽良多が、若い女性にもてるはずもなかった。
そしていつも、会社の車やバイクに乗って夜の街に走り出す…というパターンであり、行き先は必ず、都内の立ち食いそば屋であった。

他の立ち食いのプロの調査報告を調べると、その傾向として極端な生活形態を持つ者が少なくなかったが、羽良多のそれは際だって特殊であった。
羽良多は骨の髄から立ち食いのプロだったのである。

その立ち食いそば屋内に置いては、当局の監視の厳しさもあり、無銭飲食をすることもなく一介の客を演じていたようだが、毎晩毎晩街を変え、店を変え、精力的に都内の立ち食いそば屋を回る姿が記録されている。
そして彼が向かうカウンターには、かなりの確率で他の立ち食いのプロも立っていた。
立ち食いそば屋のカウンターが、立ち食いのプロ達の情報交換の場でもあることは、多くが知ることであるが、羽良多も例外なくその情報網を駆使していたことがこの調査結果から見て取れる。
「話の内容は雑談から冗談、猥談まで色々あったが、その端々に立ち食い界の情勢が含められていた。しかしその話は、どれもが暗い絶望的話題ばかりで、さながら通夜の席での借金返済相談の様相を呈していた。」
とは、潜入捜査官としてカウンター調理台に立っていた吉沢警部補の監視記録によるものであるが、立ち食いのプロの世界はまさに風前の灯火であり、彼ら自身もまた、立ち食いのプロとしてのゴトを一切行えない状態に追い込まれていた事実を、皆ただ受け入れる事しか出来なかったのである。
「食い逃げを許さない」という当局の作戦は、見事に立ち食いのプロ達を押さえ込み、食い逃げ業界を破滅させる事に成功していた。
ゴトを生活の手段ではなく、自己表現、ライフスタイルとして生の中心と据えていた羽良多にとって、この状況が耐え難い恥辱の極地であった事は想像に難しくない。
権力によって完全に押さえ込まれた羽良多は、ゴトを完全に封印された屈辱の毎日を抱えたまま冬を越えた。

だが…この過剰なまでの圧力が、羽良多を思わぬ行動に走らせる事になる。

 

 

翌2005年四月。
暫く沈黙を守ってきた羽良多は、当局によって一年間封印され続けたそのゴトを、遂に敢行する。
その舞台は、立ち食いそば屋「戦国自慢巣鴨駅前店」が選ばれた。
何故この店が選ばれたか。
今になっては推測の域を脱する事は不可能であるが、羽良多の立ち食いのプロとしての名声を轟かせるきっかけになった、ある意味彼の原点であり、その後に訪れる結果を包括できる数少ない店舗だからであろう。
数度のゴトを引き起こし、年数が経っているとは言え警戒態勢が未だ続いて居るであろうこの店舗はリスクもかなり高いはずだったが、あえて羽良多はこの店の暖簾をくぐる。
最後のゴトの決戦へ向けて。

戦国自慢系列の各店舗において、羽良多は最重要の要注意人物として顔写真が厨房に貼られており、その羽良多が店舗に足を踏み入れたとたん厨房は騒然となった。
しかし店長の石塚紀夫は狼狽えるバイトを一喝。
そして羽良多を監視していた警察官に合図を送ると、石塚は仕事に戻った。
羽良多のゴトを封じるため、自分一人が厨房に残り、バイトには客がたいらげた丼を、羽良多がかすめ取るよりも早く確保する戦術をとる。
客が席を立ち上がろうとする度に、大慌てでバイトが丼を取り上げ、隣の客が丼を空ければテーブルに下ろす前に取り上げる。
そんな滑稽な風景を眺めていた羽良多は、不敵な笑いを浮かべながらカウンターの石塚に歩み寄った。
その手には丼では無く、くしゃくしゃになった食券が一枚、握りしめられていた。
今度は使用済みの丼では無く、使用済みの食券をかすめ取ったのだ。
丼のすり替えに気をとられ、本来なら商品の提供と同時に破棄すべき食券の管理がずさんになったところを突く、羽良多の新たな、そして最後の「ゴト」であった。
羽良多はそのかすめ取った食券で、醤油チャーシュー麺大盛りメンマ抜きを注文。
店長の石塚は監視の私服警官の顔を見たが、時既に遅し。
羽良多の食券が不当に得られたものかどうかを判断する材料に乏しく、今回だけは警官も見ている事しか出来なかったのである。
石塚は屈辱に拳を振るわせながらも網をすくい、カウンターで仁王立ちする羽良多に注文通りの品を差し出した。
さぞかし勝ち誇った、嫌みな視線を浴びるだろうと覚悟をして顔を上げた石塚は、意外な光景を目にする。

羽良多のその表情は、勝負の勝ち負けをも超越した、原始林に淀んだ溜まり水の如き静かな、そしてどこか寂しげな表情だったという。
目の前に丼が置かれても、彼はその悟りを得たかのような表情で暫く丼を見据えていた。
それはまさに、嵐の前の静けさに過ぎない事を、石塚はまだ気付いていなかった。
暫く丼を眺めていた羽良多は、おもむろに懐から長禄を取り出すと、まずはモヤシ、次にゆで卵にニンニクを乗せ、そして更にニンニクを投下した麺を順に胃の腑に納めた。
汁を残して麺を喰った後、羽良多は、何かを噛みしめるかの如く、ゆっくりと汁を啜る。
そして汁も飲み干し、空になった丼をカウンターに置き、再び彼はその場にたたずんだ。
その表情はどちらかと言うと虚ろで、その直後の騒動を引き起こす人間のそれにはとても見えなかった…というのは、当時店内で羽良多を監視していた私服警官が後に語った言葉であるが、羽良多はその静かな表情で丼をただ眺めていたという。
その時は、正確には数分もない短い物だったはずである。
だが、その場にいた者にとっては、何時間にも感じる緊張の時間であった。

その緊張の時間は、羽良多が静かに漏らした一言で破られる。
「鳴門が…鳴門がなかった…」

店長の石塚は、まさに覚悟をしていたその台詞を受けると、硬直。
対処法は練習したはずだった。
しかし何故か石塚は言葉を返す事が出来なかった…その羽良多の圧倒的な存在感を前に…他の被害者と同様、彼もまた、羽良多の立ち食いのプロとしてのオーラに圧倒され、正常な思考すら奪われてしまったのである。
哀れみを浮かべた静かな視線を石塚に向け、羽良多は暫く沈黙していたが、やがて、羽良多が長年使い続けてきた、彼のマヌーバーとしての定型文が遂に炸裂するのである。
「鳴門も入っていねぇモンが、お前のラーメンなのか。鳴門が入っていなくても、お前はそれをラーメンと呼ぶのか。てめえのラーメンは鳴門も入れられねえ代物なのか!こんなもん、ラーメンじゃねえ!!」
石塚が予想していた台詞であった。
しかし、羽良多の狂人のような目つきと、その魂の奥底から絞り出したような感情の塊とも言える叫びは、ただでも極度の緊張状態下にあった石塚の深層心理を直撃した。
これは羽良多の、羽良多を食い逃げのプロフェッショナルたらしめた生まれながらの技術であり、石塚もその術中に陥った被害者の一人だったのである。
結果、石塚はその覚悟とは裏腹に、顔を真っ赤に染めて記憶を無くすほど激高する。
数分間のすさまじい言い争い。
その声は、巣鴨駅のホームにまで響いたと記録されている。

この言い争いの渦中、羽良多は更に相手の心理を逆なでし続ける。
これまた羽良多の常套手段なのだが、徹底的に相手を追い詰めて冷静な感情を完全に潰してしまう事に長けており、それもまた羽良多の強力な武器の一つでもあったのだが、平穏なバイト生活からラーメン屋店長に昇格したばかりの石塚に、当然ながらそれにあらがう術など、あろうはずもなかった。
最終的に石塚は、羽良多に煽られるだけ煽られ、動物の本能を残して残りの自我を崩壊させてしまうことになる。

全ての理性を失った石塚は麺棒を手に取ると、野獣のような咆吼を上げつつ羽良多の側頭部へ、力の限り、遂にそれを打ち下ろした。

いつもならこの瞬間を利用して逃げる羽良多は、この時だけは微動だにしなかったという。
それを待っていたかのように、振り下ろされる麺棒をただ見ていた…というのは、当時止めに入ろうとした私服警官の証言である。

強烈な一撃が羽良多の側頭部を襲い、羽良多は静かに、枯れた樹木が倒壊するようにスローモーションで崩れ落ちた。
正気に戻った石塚が目にしたのは、わずかな笑みを見せながら死の淵へと沈みゆく羽良多の最後の姿だった。

羽良多は長年の偏食による動脈硬化と、店長石塚の麺棒による側頭部への痛烈な一撃による脳内出血により、西巣鴨総合病院に緊急搬送されるも、意識を取り戻す事はなく、翌日死亡。

享年、30と2年、立ち食いのプロとしては、あまりにも早い死であった。

彼の死後、立ち食い業界はとどめを刺されたかの様な衰退を見せることになる。
翌年、事件現場となった戦国自慢巣鴨駅前店は椅子が据えられ、立ち食い形式を廃止。
ほど近い白三ラーメンも、近隣住人を巻き込んだ無銭飲食暴動により移転を余儀なくされ、新店舗では椅子が配備されるに至る。
土佐の男ラーメンに至っては、ノミ行為でヤクザに借金のカタに店舗を奪われる事態まで発生。
羽良多がその生涯をかけて挑み続けた「立ち食い」の世界そのものが、次々に消滅し、同じくその立ち食いを生業にしてきた立ち食いのプロ達も、静かに、そして急速にこの世から姿を消えていった。
今現在では全国でも数えるほども残っていないという。

羽良多は、その人生を立ち食いと共に生き、立ち食いと共に死んだのである。

これを見て、一部研究者の中では羽良多を「最後の立ち食いのプロ」と呼ぶ者も居るが、この状況を踏まえればそれもまた一つの意見として賛同するほかに無い。


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